キャリコンまぁさのキャリアもシンプルな構築で。

一個人として、またキャリアコンサルタント・コーチとして感じたことを綴っていくブログ

お仕事探し〜リファラル採用って知っていますか?〜

仕事を探す時、

あなたはどんな方法を

使われているのだろうか?

 

ハロワに行ったり、

求人誌見たり、

転職サイトや人材紹介会社に

登録したり、

転職フェアに行ったり、

希望企業のホームページや

SNSで募集がないか

確認してみたり…。

勇気溢れる人は

直接連絡したり、

履歴書を送ったりも。

 

その中に、

知り合いの人から

「うちはどう?」と誘われる

パターンもありますよね。

それが、リファラル採用

(リファラルリクルーティング:

社員紹介採用)というものに

なります。

社員の方が、うちの会社に

いいと思える人を紹介・推薦

する方式です。

新卒の方であれば、

リクルーター制度がそれに

あたります。

 

これ、企業もメリットが

大きいのですが、

求職者にもメリットが

大きいんですね。

 

紹介される方との人間関係が

良いことを前提としてね。

まず、現場の生の声が

聞けること。

人間関係や休暇の取得具合、

仕事の進め方など、

普通に面接するだけでは

見えてこないところも

わかりますね。

特に就業環境に

重点を置かれている方は

ここの話は避けて通るわけに

いきません。

 

次に、自分に何を

求められているのか、

明確になる。

面接に管理職の方は

出てこられることは

あるでしょうが、

隣のデスクの人、

同じグループで

一緒に働くような人の声は

面接時に聞くことは

なかなか難しいですよね。

 

3つ目は、

業務遂行以外の点について

重要度が下がる傾向にある。

わかりやすく言うと、

学歴で切られることが減ると

いうことです。

書類選考において、

学歴で切られることが未だに

あるんです、

実務経験があっても。

学歴に拘る根拠は

何なんでしょう⁇

40・50代の人の学歴…

学歴より仕事で何をしてきたか

そっちを重視して欲しい…と

個人的には思います。

 

ということで、

自分の中で

企業に求めるものと

自分が提供できるものを

把握している人にとっては、

知り合いからの紹介って

有効な手段だと思うのですよね。

 

もちろん、

利点ばかりではないですけど。

 

紹介してくれた人が

あなたの要望や

企業側のニーズを

正確に掴んでいなかったり、

ただ頭数揃えるために

誘っていたり。

(その後の関係は…?です)

紹介で入ると、

期待値も上がるので

予想以上に大変だったり、

紹介者の方の顔も立てなければ

いけないとか。

 

もちろん企業側も

メリットばかりではないので、

紹介からの採用というのは

多くはないでしょうね。

 

それでも、

次の仕事を探す…と考えた時に

・自分ができること

・自分がやってみたいこと

・外せない条件

を踏まえて、

・どんな会社に勤めてるのか

・勤務している会社の魅力

(求人がありそうかなども)

聞いてみるのも

一つの方法ですよ。

 

理想としては、

「自分が働いている会社は

◯◯なところが良いから、

おススメできるよ」と

自信を持って

人に言える企業で

働いて欲しいなと。

あなたが満たされることで

企業も満たされるなら、

それに越したことはないので。

差し出されている手を握らず、「助けて」ということ

昔々のその昔。

タイトル通りのことが

起きているのを

あなたが目撃したならば、

どう感じるだろうか?

 

たぶん、

目の前の手を握ったら?

と、思う人が

多いんじゃないかと

私は思っているのだけれど。

 

 

それでは、これが社内ならば

どうだろうか?

「困ったら手助けするよ」と

言われているにも関わらず、

ただひたすら

「不安だ、できない」としか

言わない人がいたら。

 

どの視点で見るかによっても

意見は違うのかも

しれないけれど、ね。

あなたも、自分だったら?と

思って考えてみてほしい。

 

 

「手助けするよ」と

言ってる人がAさん、

「不安だ、できない」と

言ってる人がBさん、

それを眺めている人を

Cさんとすると。

 

 

Cさんは、

ここは

人間関係が良くない会社?

と考えるだろうか?

それとも、

Aさんか、Bさん、或いは両方に

何か問題があると

思うだろうか?

 

Bさんは、Aさんが

嫌なのだろうか?

それとも、

Aさんの声が

届いていないのだろうか?

或いは、Aさんの声が

届いていても、

それだけでは

不安で、できない、と

思っているのだろうか?

 

Aさんは、

手を差し伸べると言っても、

Bさんは信頼してくれていないと

思っているだろうか?

それとも、Bさんの

不安やできないという思いは

真っ当なものと

思うだろうか?

 

 

 

 

これ実は、

Cさんが私だった。

で、

Aさんは先輩、Bさんは後輩

という間柄。

Aさんは、新しい業務を始める

Bさんに対し、

「自分は経験があるから、

分からなくなったらいつでも

手助けするよ」と言っている。

それに対してBさんは、

その業務を始める前から

「不安だ、どうしたらいいか

分からない」と、

繰り返し言っている。

ちなみに、業務のやり方は

これからOJTを行う。

こんなやり取りをずっと

グルグル繰り返している。

 

 

 

…どうだろう、

あなたが私なら、

どう感じるだろうか?

 

 

 

私、正直なところ

イラッとしたの、

Bさんに対して。

 

Aさんが

まだ何も始まっていない

うちから、

手を差し伸べるって、

信頼関係を繋いで

結んでいこうとしていると

思ったのね。

心配いらないよ、という

励ましであり、

いざという時、助けますって

約束。

 

その手が

差し伸べられていることを

分かっているのに、

Bさんが

手を握らずに

いたずらに不安な気持ちを

振りまいているのって、

Aさんを信頼していないのか、

自分を信頼していないのか、

それとも両方なのか?

 

…どちらにしたって、と

思うのだ。

差し出されている手を

握らない時点で、

自分も他人も

信頼していないという

意思表示では?と。

 

あいにく、

私はそのような人と

信頼関係を結びたいという

気持ちは起きづらく。

 

ただまぁ、何というか、

人生を得する生き方では

なさそうだなと

そう思うのだ。

『学ぶ』って、最高の贅沢。

習うことってホントに楽しい。

既に自分が知っていることで

あっても。

 

キャリアコンサルタント

コーチと並行して

もひとつ仕事を

しているのだけど、

研修など受けられるのが

本当に楽しい。

 

研修を行うにあたっての

ノウハウや

受講側者に立った場合の

見え方を知ることができるのは

もちろんだけれど、

純粋に物事を多面的に深く

知ることができるのが

たまらなく喜びで。

 

社会人になってから、

もっと

勉強しとけばよかった〜は、

世の常(笑)なれども。

 

それって、

勉強が役立つということを

如実に表してるということ。

 

そして、

社会人になってから

学ぶことに対しての

ハードルは未だなかなか高く。

時間のやり繰りや資金、

体力に頭脳。

学生時代には

有り余っていたものまで、

今は枯渇寸前に。

 

本気ならば、

お金をかけなくても、

時間をかけなくても

勉強することはできると

いうのは、

正解でもあり不正解でもある。

 

自学だけで

身に付けられるもの、

他者から学ばなければ

身につかないもの。

学びたいものに合わせて

お金と時間と他者の有無の

組み合わせが変わってくる。

 

歴史を紐解いていくと、

学べる人たちというのは

限られた人たちで。

時代によって範囲は変わって

いたけれども、

生活に余裕が多少なりとも

ある家の子弟でなければ

受けられなかったことが多い。

 

古代ギリシャだって同様。

万物の根源について

考えても、

お金にならないわけよね。

 

ソクラテスの妻、怒り狂っても

しょうがないよね。

人間の知識欲、想像力を

満たすだけで、

生活のためのことは

全く満たさないのでは。

 

経験則からも

もちろん学べるけれど、

前提条件が変わっても

再現できることが

大事じゃない?

それを可能にするのが

学問であると

私(個人として)は

思っていて。

 

それを追求できることって

いうのは、

贅沢の極みだと思うわけで。

結実するかわからないことに

身を捧げられることが。

 

学生さんに

勉強しておけ、などと

いう気はないの。

甘美の露は

大事に大事に

舐め取っていきたいので。

フフフ…

誕生日祝ってくれてありがとう。

今日はそれだけ。

キャリアの話じゃ

全然なくて、

自分の回顧文ね。

 

また明日から

ライフキャリアの肥料に

なりそうなことを

書いていくから、

見たくない人は

今日はさよならね。

 

 

 

朝から沢山の祝いの言葉が

届いてた。

こまめに返事を返しながら、

つくづく思う、幸せだねぇ。

 

生き方のベクトルが

変わろうとする時、

思ってもみない人、

生き方の指針となる人に

祝ってもらえる。

正確にいうと、

本当に祝って貰えたのかは

定かではないけれど、

そんな気持ちになれたことが

今までに何度かある。

 

 

20代の時もそうだったな。

 

 

あるアーティストの方から。

 

 

ネットを通じて双方向の

コミュニケーションが

取り始められるようになった

テレホーダイ」が全盛期の頃。

 

23時を過ぎてから、

せっせと掲示板やら

自分のホームページに

書き込みを始めていた時代。

 

ファンとコミュニケーションを

とれる場所として、

期間限定で

そういう場が設けられていたの。

 

 

たまたま、

自分の誕生日が近いことと

この先どういう風に

生きていきたいのか、

というのを

書き込んで送ったら。

 

 

誕生日(20年近く前の今日)に

返事らしき文章がupされていた。

私が送ったのも

公開されている場だったし、

返事らしき文章も公開されている場に。

 

私が当時使っていたハンドルネームを

知っていた人は、

私がどんな文章を送ったのかも

みることができる状況。

 

明確に私への返事という証拠はない。

ただ、私のハンドルネームを知っていて、

どんな文章を送ったか知っていた

友達たちは、

あまりにもupされた文章が

私が書き込んだ文章に呼応しているので、

これは返事なんじゃないか?と

私に連絡をしてきた。

 

…見たときに、私も返事なんじゃないかと

そう思った。

 

まず明らかに誰かの文章に対して

返事という体をなしている文章。

私が書いたことと、返事の文章での対応に

過不足が一切なかったこと。

文章の最後に、

『誕生日おめでとう。

ところでいくつになったの?』と

書かれていたこと。

 

私、誕生日がいつになるのかは

書いたけれど、幾つになるのかは

確かに書いてない。

 

と、浮かれつつも、

毎日すごい数の文章が

寄せられているし、

まず本当に目に留まったのかどうかも

怪しいところ。

 

仮に見て貰えたとしても、

誕生日が同じ人だって、数十人くらいは

あの場にいたのかもしれないし…と、

舞い上がらないようにしていたの、

当時は。

それでも、その返事と思わしき文章を

ノートに書きつけて📓、

大事にとってあるの。

時々開いて励みにして。

 

今はその答えがどっちでもいいと

そう思える。

どちらであれ、私はその言葉で

ずっと強く生きていくことを

選択し続けてこれた。

別の人宛であろうと、

そもそも返事ですらなくとも、

もう充分。

感謝しか湧き起こらない。

 

今年のことも、

ずっと先になったら

同じように思えるようにと。

そういう生き方を

また選択していきたい。

 

今年のお祝いに関しては、

そう遠くならないうちに

直接お礼を伝えられよう、

生きていこう。

何はともあれ、直接の言葉を聞かなきゃダメなんだ。

間に1人でも挟んでしまうと、

曲解は起きる。

 

今回は学問の話。

キャリアコンサルタント

よく知っている

サニー・ハンセン。

『4L』

Labor

Love

Learning

Leasure

でおなじみの。

 

お馴染みでない方に

簡単に言いますと、

キャリアに関する理論を

提唱した人で、

上に挙げた4つの単語

「労働・愛・学習・余暇」が

人生においての役割である、

この役割を統合させていこう

と言った人です。

 

Twitter でね、

ハンセンの4Lについて

素晴らしい、好きだ、という

投稿があって(それはいいの)

その後ろに、

『この4つのバランスをとる…』

 

ん〜???

 

ハンセン、

パッチワーク理論でしょう?

バランス取れなんて

言ってないじゃん⁉︎

 

その投稿に対して、

いいねもリツイート

ついてる…。

しかもつけてる人たちは

キャリコンや

コンサル系ばかり。

 

私、間違って覚えてる⁇

 

速攻、ググった。

 

1つ、2つ、3つ…

6、7ヶ所見ただろうか。

バランスをとる、

と書かれてたり、なかったり。

ただ、書かれているところの

出典元は、共通の人の名前が

書かれている。

 

では、サニー・ハンセン自身は

どう言ってるんだろうか?

 

自分が学んだ協会のテキストを

見てみたら、

『バランスよく組み合わせ…』

 

えーっっっっっっっっっっっ

 

それっておかしくない?

(おかしいのはどっちだ?)

 

他所の協会様は

どう教えているのかと

調べてみる…

「バランス」という言葉は

出てこない。。

 

(自分の中で)引っ込みを

つけられなく、

次はキャリア理論だけが

載っている本を

調べ始める。

 

………それを読んだ時に

気付いたんだ。

 

著者の解釈の違いだって。

 

この本には、

「バランスをとる」

という言葉は載っていた。

ただし、理論を説明している

章には載っていない。

載っていたのは、

アブストラクトと、個人的背景

の部分。

 

つまり、理論を読んだ人が

他の言葉より

バランスをとるという文言

の方がいい、と

解釈したんだろう、という

私的結論。

 

解釈の是非については

そう考える人もいるのね、と

幕引き。

(翻訳、参考文献、解釈で

どこで何が起きたのか、

分からないし💧)

 

はっきりさせるには、

原著を読むしかないので、

それはまたの機会に。

Amazon の欲しいものリスト

には入れておいた。

忘れないように。)

 

理論のようなものですら、

解釈で

違う形になってしまうんだと、

今更ながらに実感。

 

これが、感情入り乱れる

会話だったら?

 

直接ですら、100%再現は

難しいというのに、

間に人が入ってしまったら。

 

だから、

「誰々がこんなこと言ってたよ」

は、まるであてにならない。

 

できる限り、直接

コミュニケーションをとる。

これしか最小限の誤解に

とどめる方法はない、うん。

妊娠・出産を始めとしたライフイベントでお休みを取るのは、プロ意識の欠如なのですか?

また、こんな声が上がるのか。

「プロ意識が足りない」 産休・育休を取る声優への“バッシング”にみる妊娠・出産への誤解 - wezzy|ウェジー

 

責任を大きく伴う仕事を

している時に

妊娠することは

許されないと?

産休や育休を取ることは、

責任を放棄していることに

なると考えている人が

いるということなのね。

 

今回、産休・育休を発表された

沢城みゆきさんは人気のある

声優・ナレーターさんなので、

大きく取り扱われたことは

想像に難くない。

 

ファンの方も多いし、

注目も浴びるし…

お仕事の一挙手一投足を

楽しみにされている方も

多いことも知っている。

一定期間、お声を

聞くことができないことを

寂しく思う気持ちは

私にだってあるよ。

 

でもさ、

産休・育休で

仕事に穴を開けることが

悪ならば、

妊孕可能時期の女性は

働いちゃいけない?

 

妊娠の可能性が0%の人しか

重要な仕事は任せない、

そうしたいということ?

 

一般の仕事と声優さんでは

替えがきくかどうかの点が

違うとでもいうのだろうか?

 

声優さんが産休・育休を取ると

プロ意識がなくて、

一般の仕事で休みを取るのは

問題ないとでも?

一般人には

プロ意識がないとでも?

 

 

仕事に全てを捧げるのも、

プライベートを重視して

仕事ほどほども、

その場その場で

持てる力を

発揮するのも、

その人の価値観で

決めたらいいじゃない?

それをさ、

なんでプロ意識と

関連付けちゃうわけ?

 

プロならば、

妊娠しちゃいけないの?

仕事の状況を鑑みろという人は、

替えが効かないと思われる

くらいの優秀な人は

いつならば妊娠していいと

考えるの?

 

 

そもそも、

なんであんたのご意向を

忖度せにゃならんのだ?

 

 

プロ意識って、

何があっても休まないとか、

そういうことなの?

それじゃあ、一般社会だと

定年以外は長期の休みを

許さない…?

介護休暇は許容できるなんて

言わないわよね?

 

プロ意識だなんだかんだと

言ってる輩は

そういう生き方をしているって

ことなのかしら?

 

だとしたら…

キャリアコンサルティング

必要と思われます(笑)

 

 

プロ意識って、

その仕事の結果に対して

ついてくるものなんじゃない?

 

沢城さんならば、

マイクを前にした時の

パフォーマンスについて。

それ以外のところで、

プロ意識がどうとかって

ちゃんちゃら可笑しいわっ。

初めてのところに飛び込むか決める時には。

初めてって、ちょっとコワい。

だから、人から情報を

望むじゃない?

ここって、どんなところ?

どんな人がいる?

評判は?

知りたいよね。

 

知りたい気持ちは理解できる。

分からないって不安だから。

 

たださ、人からであっても

ネットやSNSからの情報でも、

あなたの感覚に合う情報とは

限らない。

 

情報の出処の問題や

真偽の程もそうだけれど、

過去の情報がいつまでも

残り続けていることもある。

自分とは価値観や受け取り方が

違う人の意見が書かれている。

そして、自分の中の思い込みが

瞳を曇らせていることもある。

 

今の自分に対して、

その場がどう映るのかは、

間接的な情報ばかりでは

判断のしようがない。

だから、直接の情報と

ぶつかってみた方が

いいんじゃないか。

 

その場を直接見に行く。

直接質問をぶつけて話を聞く。

その場の空気を感じる。

いわゆる、直感というか、

嗅覚を効かせるというか。

理論的な考えとは違う感覚で

どう感じるか、

それで決めるのも

一つの方法で。

 

それは、さ。

理屈で条件を狭めて、

その条件に合致したところで、

自分にとって

良い場所かどうかは

その場にどっぷり浸からないと

最終的には分からないのと

同義なんじゃないかと

思うわけで。

 

本格的に飛び込む前に

直接自分の感覚で

判断してみようよ。

 

あらかじめ

仕入れた情報とは

違うところを見つけられたら

良しにつけ悪しきにつけ、

ラッキーじゃん。

逆に仕入れた情報と同じだと

思えたなら、

自信を持って決められるね。

 

一番残念なのは、

自分で確かめもせず、

情報に振り回されて

終わってしまいことなんじゃ

ないかと思うから。

何かをする目的の根源には自分の喜びがあるんだよ。

今日の話は

完全に私の考えだから、

「あてはまらない」と

思う人もいるかも。

 

そう考える人も

否定しないよ。

自分は違うと思ったら、

心の中で反論してね。

もし良かったら、

アウトプットして

教えてね。

 

仕事や使命といったもの、

なぜやるのか?

為すことで

どうしていきたいのか?

といったこと、

人に聞かれたことありません?

就活や初対面のご挨拶等で。

 

それに対して、それぞれ

いろんな答えがあると

思うのですが、

ざっくりと2種類に

分かれるのです。

1つは、自分のため。

もう一つは、自分以外のため。

 

で、

就活で、自分のため、と

答えるより、

お客様のため、会社のため、

地域社会のため、

世の中のため、

地球のため、と

答えることの方が

評価されていそうです。

自分以外に対して

貢献しようと考えることは、

もちろん素晴らしいことです。

 

ですよ、ですが。

❶ 自分以外に対して貢献したい

思いはわかりましたが、

ご自身に対しては

どうなさいますか?

❷ 自分以外に貢献したとしても

評価や労いどころか、

反感や無関心しか返ってこない

ことがあります。

それでも行い続けられますか?

 

…意地悪な質問だと

我ながら思います。

ただね、

「自分以外の為に」と

頑張って、頑張って、

役に立とうと、貢献しようと

やってきた時に、

報われなかったら?

報われないどころか、

罵倒されたら?

 

どう思うんだろう?

自分以外の誰かのため、

どこかのためってやってきて。

その目的から

拒否されたのだったら。

 

だから、自分の中で

今一度考えてみてほしいです。

自分以外の誰か、どこかの為に

頑張る目的は何だろうって。

 

他人に伝える必要のないこと

だから、

どんなに自分本位でも

上から目線でも

構わないのですよ。

自分にとっての理想や喜びが

そこにはありませんか?

 

 

その目的を達するための

途中の目標の1つと思えば、

自分を蔑ろにもしないし、

他者からの批判、無関心、

罵倒でペシャンコにならずに

済むのかな…?と

思います。

 

表向きの目的だけじゃなく、

その奥の

自分が普段意識していない

望みにも気付いて、

目的も目標も手段も

決めていってほしいなと

思うのです。

「分かり合えない」からこそ、いいことだってある。

分かって欲しいから

一生懸命説明する。

うん、いいと思う。

 

説明を尽くしたとしても

理解してくれないことだって

あるよ。

 

それに対して、

「こんなに〜したのに」と

思う気持ちは、

分からなくはないよ。

 

偉そうに言ってるけど、

私だって

プリプリ( *`ω´)すること

あるもの。

 

 

あなたが敬意を払おうと、

親切にしようと、

便宜を図ろうと、

仲良しであろうと、

完全にわかり合うってーことは

ないんだねぇ。

 

会社だろうと、

親友だろうと、

家族だろうと、

親子だろうと、

夫婦だろうと、

関係の如何に関わらず。

 

遠い遠い誰かだったら

自分と考えが違っていても

平気だけど、

関係が近しいほど

考えの差に

イライラしてしまう。

 

分かってくれない、

当たり前なのに、

常識的に、

普通。

本当はこんな言葉

使いたくないけれど、と

自分にエクスキューズしながら

必死に説得してたり。

 

 

人はそれぞれ。

考えだってそれぞれ。

みんなそんなことは

十分わかってる。

 

でも分かって欲しい。

 

近い間柄だからこそ

「そうだね」って

言ってほしい。

 

うん。

覚悟もさせずに

言ってしまうと、

 

甘え

 

 

だね。

 

 

 

わかってよ〜ってするより

拗らせてる系の。

 

 

分かってもらおうとする

姿勢はいい。

最初からムリと諦めるよりは

いい。

 

でも、現状

分かり合えないんだと

気付いたなら、

方向を変えていこうよ。

 

 

どうしても着地点が必要なら

譲歩するラインを互いに

出していく必要があるし。

 

互いに譲れないものが

ぶつかってしまったのであれば

時間の流れと自分の行動で

何かを見せていかねば

ならないだろうし。

 

根本的に人間関係を

見直すことも

必要かもしれないし。

 

敢えて、

分かり合えない状態を

維持したままも

ありなんじゃないかと

思う次第。

 

分かり合えないことに

そんなにマイナスイメージを

持たなくていいと思うのよ。

 

まず、多くの考えを

知ることができたじゃない。

独り善がりの考えから、

反対を突きつけられても

貫きたいことという確信へ。

その上で、

自分と違う考えに対し、

どう対処していくのか、

自分はどうしていくのか

考えざるをえないよね。

 

当然ながら、

協力を得られない

部分だってある。

そこはどうする?

知恵を絞ることになるね。

行動もしないといけない。

一人だからこその

身軽さも、責任も

味わうことができる。

 

それでね、

もがいてるうちに、

スキルが上がると共に

分かり合えないことの対しての

感情が治まっていくのね。

 

相変わらず

分かり合えはしなくても、

向こうは向こうの

考えなんだろう、

それを受け止めようと

思えてくるのね。

 

それを踏まえた上で、

もう一度話し合うのか、

そこには触れずに

やっていくのか、

穏やかな気持ちで

袂を別つのか、

決めてもいいんじゃない?

 

そんな大ごとにならない方が

いいのかもしれないけれど。

それでも、

自分が普段意識していない

自分を形作る考えを

認識できるのだから、

摩擦もいいことだなと思うよ。

理屈と理屈を擦り合わせて、感情的になってしまう時。何が起きてる?

話し合うって大事ですよね。

 

仕事もプライベートも同じ。

自分と他人の関係性を

考えていくことだから。

 

だから、

 

『口でちゃんと伝えなきゃ』

 

ここまでは、

理解してくれてる人が

多いのだけれども…。

 

 

言っても、分かってくれるかは

また別の問題であって。

 

 

仕事に限らず、

理屈×理屈で話している時は

互いに尊重したり

補い合ったり、

着地点を見つけることが

できるかと思います。

 

感情が混ざった時点で

拗れます。

二律背反を受け取ることに

なるのですから。

 

理屈で話してるつもりでも

相手がなんだか感情的な反応を

してる時って、

隠れた感情が

相手を刺激して

いるのではありませんか?

 

相手が勝手に感情的に

なっているのでは

ありませんよ。

 

自分が意識していない

(隠そうとしている)感情が

あることに気付いて欲しいなと

思います。

 

自分はどう感じているのか、

それに対して

理性的に対処するために

どうしていきたいのかを

伝えたら、

相手だって、

理性的に対応して

くれるんじゃないかと

思うのです。

 

「あなたは〜」と

客観的に言っていても、

責められているように

相手は感じてしまうでしょう。

かといって、

「私は〜」と

自分のことだけ言っても、

相手は反感を持ってしまう。

 

相手と何かを

共にするのであれば、

「私たちは〜」で大きく括って

その中で理屈も感情も

理性的に伝えることで、

互いの感情を

バシャバシャ💦と

掛け合うことは

避けられると思いませんか?

 

それでも分かり合えないことは

あるけれども。

分かり合えなくても

相手を認められるなら、

それでいいと思います。

感情が先行してしまって

「嫌い」になるよりはずっと。