キャリコンまぁさのキャリアもシンプルな構築で。

一個人として、またキャリアコンサルタント・コーチとして感じたことを綴っていくブログ

理想と現実ーAll or Nothing では上手くいかないー

普段、自分がどうありたいか、

何をしたいか、理想の姿を

想像してほしいと

言ってるけれど。

 

自分が規定する

「最低限の生活が営めること」

が前提であって。

 

生活が心許ない時に

夢だけを追っかけてるのは

そりゃ違うわけで。

 

夢が軌道に乗る前に

いろいろ起きちゃうよ。

そうやって

成し遂げたことにまで

ケチついちゃうもの。

 

地に足をくっつけて置くように

生活部分も営めるように

しておこうよね。

その上で、

理想を追い求めていっても

いいんじゃないかって

思うんだ。

 

 

バランスをとる必要は

私はないと思ってる。

 

 

邁進したい気持ちを

できるだけ尊重したい。

 

 

だから、

邁進するのに必要な

自分の心身を維持できるよう、

そして、

自分を支えてくれる人を

悲しませないような

生活(ミニマムでいいから)を

まずしてほしい。

その残りの部分全てを使って

理想を追い求めていったら

いいんじゃないのかな?

 

今は生活に9割以上割くことに

なっていても、

刻々と状況は変わるから。

割合として追い求めるものに

多くを割くことが

できるようになったり。

割合は変わらなくても、

総量が変われば、

多くの時間やお金を割くことが

できるようになるから。

 

今は細々でも

糸を紡ぎ続けてほしい。

その積み重ねは無駄じゃない。

自分が予測していた方向と

違う向きになるかもしれない

けれど、

それは役に立つから。

紡ぎ続けた糸と

時の流れや人間関係が

織り合わさって

形になるから。

 

夢に浮かされず、

さりとて、

夢を諦めず。

粘り強くしたたかに。

あなたが人生の歓びを得るには、受動的に?それとも能動的に?

「人生の歓び」なんて、

漠然と言ってしまったけれど、

生活の中の行動のことね。

仕事でも遊びでも。

 

例えば、

能動的なのは

お料理すること、

受動的なのは

食事すること。

 

能動的であれ、受動的であれ、

自分の予想と違う場合は、

何らかの落差を感じるけれど、

能動的なものについては、

自分がやっていることだから

出来について途中で気付くし、

ある意味、受け入れられる。

 

受動的なものって、

受け入れられないものが

能動的に行ったことより

増えがちになるよね。

お金を支払っていたり、

他人に良い顔をしておきたい時

などは特に。

 

今回なんでこんな話なのかと

いうと、

自分の取説作りには

大事なことだから。

 

「好きなことは何ですか?」と

聞かれても、

ズバッと答えられる人は

多くはないのね。

履歴書に書く時だって

逡巡するでしょう?

 

ライフステージ、

ライフスタイルが変化する時、

自分の心を安定させる

ものとしても有用なもの。

 

受動的なものばかりだと、

環境が変わると

享受できなくなることが

あるじゃない?

 

複数あれば、

それに越したことはないけれど

1つは、能動的なものを

持っていてほしい、というか

気付いていてほしい。

 

わざわざ新たに作るのではなく

今もこじんまりとでも

やっていることで。

規模が縮小しても

できそうなこと。

 

例えば、絵を描くこと。

それまでは油絵や水彩画を

していたとしても、

材料費や時間がかけられない

時が来る時もあるよね。

そんな時に、

クレヨンでも色鉛筆でも、

デッサンでも、

塗り絵でも。

細切れの時間でも

パッと出して、

ちょこちょこやって…を

することで

気分転換するのでもいい。

 

受動的な歓びは、

まとまった時間がある時には

ご褒美としていいと思う。

 

趣味みたいなのだけじゃなく、

仕事でも

同じなんじゃないかな?

 

生きる姿勢として、

受けるだけでなく、

自ら動くことも

大事だねって話。

美しく散るのか、眉を顰められても進むのか 、サッカーじゃなくあなたの人生ならば。

W杯、結構見ています。

ロングスリーパーにも関わらず

見てるということは、

昼間、猛烈な眠気に

襲撃されたり…

それでも懲りません(笑)

 

さて、昨日のポーランド戦🇵🇱、

終盤パス回しに終始した事を

あちこちで取り扱ってますね。

決勝リーグで試合をするという

目的に沿うための選択、

仮にどちらを選んだとしても

リスクを背負って

選択した事なのですから、

私はその選択の是非について

言葉を持ちません。

 

次のベルギー戦🇧🇪も

TVの前で応援するだけです。

 

で。

大小関係なく、

選択しなければならない時って

普段の生活の中にも

あるものです。

仕事ならば特に。

 

良い悪いの話では

ありませんので、

正解はありません。

よって、

あなたが思った事を

あなたが実行して

納得できるかどうか、

この一点に尽きます。

 

美しさや潔さに

重点を置かれるのならば、

それも良し。

その代わり、散るのであれば

「その後」はありません。

 

次に進む事や挽回に

重点を置くならば、

それもまた良し。

ただし、人が離れていくことが

あるかもしれませんし、

揶揄がずっとついて回るかも

しれません。

 

キャリアコンサルタントとして

散っても良いです、とは

言い難いです。

ただそういう気持ち・考えに

至ったことを

否定する気はありません。

その上で、散る以外の選択肢を

一緒に探したいと。

 

だって目的は散る事では

ないのでしょう?

 

手段の目的化が

起きているならば、

それは修正した方が

いいですからね。

 

それから、

他人の選択によって

影響を受ける

当事者でないのなら、

求められてないのに

ウダウダ言うのは

スマートではありませんよ。

 

思ったことは

心の中で熟成させて

肝心な時に使いましょ?

やらずに後悔とやって後悔、どう選択する?

やらずに後悔するのと

やって後悔するならば、

やらずに後悔する方が

悔いる度合いが高い…というの

聞いたことあります?

正しいかどうかは

その人とTPOにも

よるものだと思うけれど。

 

…いや、昨日ね

コンビニで本を見つけたの。

ちょこっとだけ中を見て

「あー欲しいなぁ」と

思ったんだけど、

昨日は買わなかったの。

持ち合わせはあったんだけど。

で、家帰ってきてからも

ずっと読みたいと思い続けて、

よし、明日買おう!って。

で、昨日の今日よ。

そのコンビニに行ったら、

ないの。

え、えぇ〜!!ってなもんよ。

ところがさ、

昨日から読みたい熱がメラメラ

してるから、

近所の書店からコンビニから

ずっと歩き回って探して…

 

3時間も歩き回って

見つかんないの。

中型店くらいの規模でもない。

時間と体力に余裕があれば

街中の大型店にも

突撃したんだろうけど、

帰ってきました😭

 

 

もう、激しく後悔よ。

 

 

電子書籍としても

出ているのは知ってるんだけど

紙で読みたいものって

あるじゃない?あるのよ!

もうね、

読みたい気持ちの方が強いから

電子書籍ダウンロードするけど

開く度に思い出すのよ、

「買っておけば良かった〜」

って。

 

 

じゃ、これね、

昨日のうちに買っていたら

何にも思わなかったのかと

いうと、

きっと違う…。

 

この本は、自分の学びに

絶対に必要なものかというと

そうではない。

なければいけない、でなく

あったら良いよねぇ…くらい。

更に、自分にとって

必要な内容は一部分にしか

過ぎないもので。

ムダ遣い、とも言える。

 

たぶん、昨日買っても

今日は何か思ってたと思うの。

もったいなかったかな?

この分で別の物を買った方が

よかったかな?

って。

 

今回は、先に書いたけれど

電子書籍で購入すると決めた。

ダウンロードしたの開く度に、

早く買えば良かった、と思い、

ムダ遣いしちゃったかな?と

チクチク思うことも

織り込み済みの上でも

読みたい欲の方が上回るから。

 

本1冊でさえ、

こんなに葛藤するの。

もっと大きな選択、

仕事や人間関係や人生に

大きく関連することだったら。

 

やり直しが簡単に

できるのだったら。

こんなこと、考えやしない。

 

まず、考えてみて欲しいこと。

 

やって後悔したならば、

まだやっていない

過去の時点の状態に戻ることは

経験のあることだけに

それほど大変ではない。

また、過去の状況に戻すことが

できないのであれば、

別の道を探すか

今の状態を甘受する。

 

やらずに後悔したのであれば、

可能ならやってみること、

もしくは現状を甘受する。

 

どちらをとっても最終は、

現状を変えるか、

現状を甘受するか、の

どちらかになる。

 

そして、甘受するということは

時が経ち、

その状況を受け入れたとしても

後悔した状態からは

一切変化がないということ。

 

別に

やらずに後悔より

やって後悔の方がいいと

決めつけているわけじゃない。

 

どっちを選んでも

また選択をする時は

やってくるのだから。

 

自分の心とよく相談を

してほしいというだけのこと。

「運がない」「恵まれない」と言う人は、言うだけなの?

「運がいい」「恵まれてる」

「贔屓されてる」

「特別扱いされてる」

社会に出てから、

更に子を育ててから、

とても言われます。

 

正直、運がいいと思います。

恵まれてもいるとも思います。

だから、贔屓とも特別扱いとも

見えるのでしょう。

 

人が思うほど

なんでもかんでも

思い通りじゃないし、

それなりに大波小波あるし、

短期的視点で見ると👀、

結構バタつく人生だけれど。

 

ただその大波小波はムダに

やって来てはないし、

頃合い図って援助の手や

ツールが差し出されるし。

ライフキャリアを考える上で

全部美味しいし、

何より、致命的なことは

一度もなかった(笑)

 

 

「運がない」「恵まれない」と

仰る人たちを見てると

不思議に思います。

何を求めているのかと。

 

お話を伺うと、

自分は動かずに、

白馬に乗った王子様や

カモが札束💴背負ってくるとか

…いやいや。

私から見ると、

良い事と思えることでも

不満を抱いていたり。

全自動で勝手に自分の目の前に

良いことが起きてくるとでも

思っているとしか思えない…。

とまあ、個人的な考えは

そこそこに。

 

「引き寄せ」という言葉が

都合よく利用されて

いるかのような。

 

「引き寄せ」と言って、

上手く行っている人たち、

楽しいことだけイメージして

寝てるわけじゃないですよ。

結構地味なことを丁寧に

長期間やってたりします。

周りの人は

・知ってても言わない。

・知ってるから力を貸す。

努力(と本人が思っているか

わからないけど)もしてる。

一見さんには全く見えないの、

本人も周りも見せてないから。

 

そして、周囲の人や物に対して

感謝しまくりで

本人ニコニコしてるじゃない。

なんなら、ホワホワッと

した感じで。

勝手に運やら恵みが

寄ってきているように

見えるのね。

 

でも、引き寄せ、というか

手繰り寄せてますからね。

意識的であれ、無意識であれ。

「叶ったらいいな〜」じゃなく

叶うことを前提として。

 

 

だいぶ話が跳びましたけど。

 

 

「運がない」「恵まれない」と

思ってる人は、

気付いてないだけじゃないかと

思うの。

自分のことも周囲のことも。

あと、現状維持を望んでいる

人もいるから。

 

どんな人生も

その人の人生だから、

どうやって生きるのか選ぶのも

自分次第なんだけれどね。

他人に言うくらいなら

自分を「運が良い」

「恵まれてる」人扱いを

した方が、

幸せなんじゃないの?と。

寿命までは生きるんだから、

笑顔の多い人生の方が

きっと良いと思うな。

好き・嫌い・好きでも嫌いでもない、とあともう一つ

白黒ハッキリじゃないけれど、

好き嫌いの2極化にならないよう

好きでも嫌いでもないところを

増やしていくといい、って

いう話、ご存知です?

(許せる・許せない、なんかも

同じよね)

いわゆるグレーゾーンを

作って、

穏やかに対処しましょうと。

 

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図1のね、黒い部分を少しでも

青い部分にできたらいいねって

ことね。

 

だけどさー、

こんな同心円状に好きだの

嫌いだのってなるのかな?

と、天邪鬼な私は

考えてしまう訳で。

 

図2みたいに、

対象によって

許容の範囲違うんじゃないの?

と思う訳ですよ。

◯◯については、

大抵のことは好き、

好きでも嫌いでもないのは

ほんの少し、

そこを越えるともう嫌いとか。

✖️✖️は、許容範囲が広くて、

好きや

好きでも嫌いでもないのが

ほとんどで、

嫌いはほんのちょっととか。

 

「嫌い」が減ったら、

生きやすいとは思うけど、

「減らさなければ!」では

ないと思うの。

 

それよりも、

自分の好みの境界線を

意識することの方が

ずっと大事だと思うのよ。

『嫌い』って感情を否定して

変えていくよりも、

自分はこれが嫌いなんだなー

って、受け止めておく方が

楽そうなんだけどね。

 

 

私はこれが嫌いなんだって

気付いてないと、

他の人がしてくれたことを

意地悪されたとか

嫌味だとか、

マイナスに捉えちゃうこと

あるじゃない。

そこには善意しかない場合でも。

それだって、

自分はこれが嫌いなことなんだ、

相手はこれが好きなんだと

把握していれば、

してくれようとした

気持ちに対しては、

感謝できるし、

好きではないことや

代替案を出すことだって

できるよね。

 

無理くり好みを変化させると

私は、嫌いなものを

好きでも嫌いでもなく

したんだから、

あなたも嫌いと言わずに…

みたいになったりも

するじゃない?

 

苦しい思いを

他人に強いちゃうのも

どうなんだろう?

 

嫌いって、

それだけ気持ちが動いている

ものだしね。

対処が必要な場合も

もちろんあるよ、

あるけれど、

嫌いって気持ちを

強引に変えることは

どうなんだろう?と

思っています。

 

それから、図2の方だけ

嫌いゾーンの外側に

グレーで色塗られた場所が

あるでしょう?

それは「無関心」ゾーンね。

 

嫌いっていうのは、

意識しているから、

嫌いって言えるのね。

その外側って

意識すらしてないのよ。

気持ちは全くもって

動くことがない。

意識に上がってこない

ところだから、

普段気づかないけれど。

 

知らない、

興味がない、

自分と関係がない、

関わりを持ちたくない、

そういったもののゾーン

なんだとちょっとだけ

覚えていてくれたらいいなって

思った。

 

ブログの中に

あなたの「好き」に含まれる

ことが1コでも

入っててくれたらいいなぁ。

 

ま、好みなんてものは、

蓼食う虫も好き好きですから。

そういう私が、

あなたよりもずっと

好き嫌いが激しいのです(笑)

報告と一言で言っても、求めてるものは?

報告。

この一つの言葉の

求められているものを誤ると

残念な人扱いをされる。

下手すりゃ

どエライ勢いで怒られるし。

 

さて、あなたは

報告というのは

どういう時にしたらいいと

考えているだろうか?

そして、伝えること自体に

抵抗はないだろうか?

 

これは私が小学生時の経験で。

5年生時。

高学年ともなると、

委員会だけでなく、その上の

児童会の活動にも

クラスから児童を出すことと

なっている。

それで児童会の事務局員を

した時のこと。

 

組織的にいうと、

児童会の事務局で

決まったことは、

クラス委員が集まる

代表委員会に下ろされて

彼らからクラスに連絡する形で

動いている。

 

…ということはだ、

事務局からクラスに直接連絡の

必要はない→だから報告しない

これでいいと思ってたんだ。

 

ところがある日、担任に

言われたの。

「事務局で話し合ったことを

連絡しなさい」って。

↑のように考えてた私は、

クラスに報告すべきことなんて

ないわけだから、

「ありません」って

答えるわけだよね。

 

そしたらさ、

烈火の如く怒り狂ってね、

「∀》●⁂〕§&Å−♭∽♀!!」

と。とにかく凄まじく

怒鳴り始めたのね。

 

…めんどくさぁ〜、と

思いながらも、

一応小学生なので、しおらしく

「今日は◯◯について

話し合いをしました」と

言っておいたの、

逆らうとビンタ数発喰らうこと

わかってたから(笑)

 

と言う話からですね、

結果だけを伝えればいいと

いう考えと

一事が万事連絡せよ、という

考えがあるわけですね。

 

 

聞く側として、

全て把握したいタイプと

結果だけ寄こせタイプ。

 

報告側としては、

何でもかんでも伝えるタイプと

上手くいったことだけを

伝えるタイプ。

 

 

一人で完結しようとするなら

上手くいった結果だけ

伝えればよし。

 

今、仕事も教育も

チームで行う所が

多いんじゃないかと思う。

その中で、個人の仕事を

固定化したりして。

 

そうすると、問題があったり

進捗に差が出てくると

チームとしての仕事は

進まなくなるよね。

迷惑かけたくないからといって

残業や休日出勤?

できるかなぁ?

一人でもそんなことがあれば、

管理職のマネージメントに

問題ありってなるんじゃ?

 

一人で頭からやるんじゃなくて

チームでやる意味って、

分業することで

効率を上げていくことが

大前提なのね。

そして、業務が上手く

流れているか確認するのが

進捗よね。

で、予定より遅れていたり、

上手く進まないことが

あるならば、

その進捗確認の時に

言って欲しいと

思っているのね。

 

決して責めたいんじゃなくて。

今どういう状況なのか、

どこに問題がありそうなのか、

それを解消するために

チームのどの力が必要なのか、

把握するためのことで、

あなたを責めたり、

無能だと決めるために

質問してんじゃないってこと。

「何かあったら相談してね」は

そういうこと。

 

この機を逃すと、

自分の成長の機会を

将来に渡って

失ってしまうことに

なるんだよ。

 

小学生の頃やらかした私も

さすがに気づくさ、

人を預かるとね。

 

何でもかんでも報告しろとは

さすがに思わないけど、

困ったかも?と思った時点で

一声かけてくれたらいいなと

そう思うようになったのさ。

上手く言ってないことを

伝えたくない気持ちも

理解してるけどね。

今でもそうだから。

 

それでも。

チームのためにも、

あなたの成長にも

必要と思うんだな。

結果も経過も、

上手く言っていない状況も。

自分を評価する目はどこを見たらいい?

会社にとっては、そろそろ

評定をつける時期なのかな?

(私がかつて勤めていた所は

6月、11月だった。)

他人を評価するのだって

大変なわけだけど、

自分を評価するって

正直わかんないわけよね。

 

数ヶ月〜約1年もの長い間に渡り。

反省だけを書くなら

色々と書くこともできようが、

たいがい良かった点も

合わせて書くことになっていて

しかも具体例まで上げよ、と。

 

評価する時に必ず出てくるのが

絶対評価相対評価

仕事って、相対評価されやすい。

だからこそ、自己評価は

絶対評価で見てもらいたい。

 

 

評価者の観る目が

問われているんだけれど、

相対評価だけだと

自分が大きく成長していても

集団がそれ以上の伸びを

見せた場合、

他人からはその成長が

見えずらい。

また逆に、

自分は現状維持でも

集団としての力が

後退していると

成長したように

錯覚を引き起こすから。

 

評価者のバイアスが

大きく掛かると、

自己認識もズレが

大きくなるの。

 

評価基準の集団も

評価者も

選べないなら、

自分でも

自分の成長具合を

確認してほしい。

 

その際の評価基準は、

過去の自分で。

そして出来る限り具体的に

どこがどれだけ変わったのか

言えるように。

大きな成果である必要は

なくて、子細なことでも。

 

実績として目に見えずらい

職種の人は、

どうするの?って、

思うかもしれない。

 

例えば、経理みたいに

毎日同じことを

間違えずにやり続けること。

↑間違えずにやり続ける日数も

評価になるんだよ。

警察に貼ってあったりするよね

「無事故◯◯日達成!」って。

あれとおんなじ。

記録しておいてほしい。

もし、間違えを起こしても、

そこから、

間違えないような仕組みや

やり方を考えたら、

それも評価になるんだから。

 

で、その上で

相対評価も見てほしいなと。

属する集団の力も分かるし

この先どうしていくことが

貢献に値するのかも

明らかになっていく。

 

その結果、

必要なら属する集団も

変えなきゃね、

更なる成長を求めたり、

違う道を探したい人には。

 

その際、

自分の積み重ねたものが

どうなっているのか把握し、

他人に知らせるためにも

過去からの成長具合を

自分が知っておく必要が

あるから、

自己評価は絶対評価

必ず定期的にやっておいた方が

いい。

不得手なことをしなきゃなんない時、どんな助走をする?

得意じゃない、と

自覚があるということは、

大抵好きじゃないことだよね。

 

得意じゃないけれど

好きなことならば、

分類はあくまでも

好きなことに入ってる。

 

不得手なこと、として

思い浮かぶことは

あまりいい記憶や思いじゃ

ないのでは?と想像する。

 

そんなことをしなけりゃ

いけない時は、

助走が欲しくなる。

 

ただの幅跳びみたいに

踏切からエイッて跳んでも

本当は問題ないのかも

しれない。

 

でも好きなことじゃないから、

何かと理由つけて

助走距離をとろうと

するわけだよね。

早く跳んでしまえばいいって

わかってはいるけれど、

時間切れを狙いたい気持ちも

あって。

そして時間いっぱいって時に

やらなきゃいけなくなって

慌てふためいて走る羽目に💨

なるんだ。

そうすれば踏切失敗しても

時間がなかったとか、

いろんな言い訳で自分の心を

繕うことができるから。

 

 

決して

君を責めたいわけじゃない。

 

 

誰にだって、

そんな一面はある。

 

 

人生の折り返し地点まで来て

思うのは、

伸び盛りの時っていうのは、

やりたくないけど

しなきゃいけないことって

多いなと。

 

多いからこそ、

一事が万事、

助走を長くとってばかりは

いられないってこと。

 

求められてるのは

どんなジャンプなんだろ?

 

もしかしたら、

踏切からピョン🐰で

いいのかもしれないし、

試しに飛んでみるだけで

いいのかもしれない。

自己記録更新だけ考えて

跳べばいいのかもしれないし、

跳ぶためのサポートチームが

用意されてるのかもしれない。

 

いずれにしろ、

君は走る距離もスピードも

どうなるかわからないけど、

踏切って跳ぶことを

しなきゃ終わんないんだね。

幸いにして、着地するのは

柔らかな砂地だ。

尻餅ついても

つんのめっても

グラウンドよりは

怪我はしづらそうだ。

 

 

さて、実務に話を戻そう。

あ、先に。

その不得手なことをする事で

精神的に大きな痛手になるとか

二度と立ち上がれない、

そんなことが明確に

わかっているならば、

それは避けるべきだと思うよ。

 

そうではないのなら。

嫌だなという気持ちが

減ったらいいなとか、

誰かみたいに上手くできたら

いいなと思えたり、

さっさと済ませて

しまいたいなと思うなら。

小さくていいから、

まぁやってみようよ。

 

人に教えてもらうでも

ツールを利用するでも

とりあえず手をつけてみるでも

スタートしてみたら

いいと思うよ。

 

やってるうちに

何か気付くから。

 

やってくうちに

きっぱりやめるかもしれんし、

まんざらでもなくなるか、

ドハマりしてしまうか。

 

細かなところに目が行き、

助走か、踏切か、跳躍姿勢か、

あるいは靴なのか。

 

適性の方向を見つけるかも。

走高跳の方が成績が伸びそうとか。

コーチ、マネージャー、

トレーナー、グラウンド整備、

フォトグラファーなどなど。

どこで花開くか🌼

わからない。

 

それもこれも、

自分が動いてみなきゃ

わからないのね。

 

得意じゃないから、

気後れもするし、

上手くできないんじゃ

ないかと思うから

億劫にもなる。

 

全てが上手くならなくていい。

不得手だけれど、やる時には

精一杯やります、で。

 

不得手なことをする時の助走は

踏切より前に行ける助走をする

人様にできること、できないこと。気持ちのまま突っ走ってない?

昔に比べて、

沢山の情報が迅速に

流れてくるようになった。

玉石混交のまま。

 

SNSに限らず、

実際に顔を合わせる

世の中でも。

 

真偽はどうなのか、

何が望まれているのか、

手に入れた情報から

考えていかなきゃならない。

場合によっては行動も。

 

心の平穏を保った上で

客観的な視点で

考えたり、行動したり

して欲しいなー。

 

当事者じゃないのに、

過剰に気持ちが

入り込んでる時は

色々してあげたく

なっちゃうんだけど、

妨げになってしまうこと

多いよねー。

 

「自分が何かして…」という

気持ちはとても親切で

優しいものだけれど、

その気持ちを出すタイミングは

適切だろうか?

 

その出し方は、

ただの自己満足になって

いないだろうか?

 

時には

何もせずに

ただ見守ったり、

やるべき人たちの邪魔を

しないでいることが

最大の助けになることも

あるんじゃないだろうか?

 

あなたに何もして欲しくないと

言ってるんじゃないよ。

順番ってあるんだよ。

役割の順番。

それを横入りしたら

ダメでしょ?

あれもこれも!って、

1人で沢山の役割をするの?

力を分散させるのは

得じゃないなぁ。

 

準備を重ねて

順番が来るのを

待っていたらいい。

 

それまで、

いつも通りの暮らしを

丁寧に続けたらいいじゃない。