キャリコンまぁさのキャリアもシンプルな構築で。

一個人として、またキャリアコンサルタント・コーチとして感じたことを綴っていくブログ

私の行き当たりバッタリキャリア 〜社内異動、部署が変わると評価もこんなに変わる〜

辞めるための支度を

始めようとした矢先、

異動辞令が出たんだ。

あと1ヶ月ずれていたら

退職願が先に出ていた。

 

見学まで行ったのに、

異動はあり得ないと思ってた。

その頃、臨床検査部門自体が

大きく組織改編をしようとして

検査事務は検査部門の中に

取り込まれたり、

人手不足の為、直属の上司が

検体回収に回ることに

なったのだが、いたくそれが

プライドなのか何かを

傷つけてしまったらしく、

退職を申し出たり(しかも

有給をドカンと使おうとして

大揉めになった)、

この先ブラックはブラックでも

ブラックホール

呑み込まれるんじゃないか、

とっとと逃げる算段を…と

そんな状態だった。

 

そんな時に出た異動。

居心地が悪くなるかも、と

覚悟していたのだが……

とっても穏やかな日々。

 

理由は、今なら理解できる。

小さな会社なもので、

専務が人事や財務も

兼任していた。

更に、私には最後まで

構造が見えなかったのだが、

専務に対しては、

誰も、反抗的な態度を

陰ですら見せなかった。

そして最大の理由は、

私がその専務に

可愛がられていたからだ。

(理由はわからないけど)

 

私に異動のことで

突っかかったり、

イチャモン付けることは、

専務に対してそうすることに

なると理解したのだろう。

 

異動前の1ヶ月は、

これまでの2年余りに比べると

楽だったな〜。

引継ぎのために新しい人も

入ってきて、

私はその新人さんに

深く関わることもなく、

やるべき作業だけやって、

帰れたし、

もういなくなる人扱いなので、

ドロドロした話も

耳に入らなくなり。

社外での作業補助として

外に連れて行ってもらえたり。

 

同じ市内に次の部署も

あるのに、

転居を伴う異動並みに

送別会もしてもらえて。

 

 

で、異動したら。

同じ会社とは思えないほど。

最初だけだと思ったの。

こんなに親切で、明るくて

笑っている人たちが

見られるの。

2004年に辞めるまで

約7年変わらなかったよ。

 

当初、おどろおどろしい

部署からやってきたと

いうことで、質問責めに。

二言目には、

「ここはそんなの

ないからねー」と。

雰囲気は、学生的なノリ。

みんな白衣着てるから、

オトナ化学部みたいな。

実験室で作業している人たちの

年齢が同年代ばかりだったから

わからないことも

気軽に聞くことができたし、

質問される方も

されることに慣れていると

いうか、

聞くのが当たり前、

わからなくて当たり前、

という温かい雰囲気だった。

 

その上、まだこの部署は

忙しくなっていく前の時期で、

教育に沢山の時間を割ける

余裕があった。

 

機械も分解して

構造を見せてくれたり、

自分一人のために

講義を開いてくれたり、

社外の講習にも

出してくれた。

 

人間関係も私にとっては

天国で、

「みんなで〜」がなく、

それぞれのスタンスを

尊重し合っていた。

 

異動して2ヶ月。

元いた部署が、1ヶ月後に

会社として独立すると聞いた。

この時に、気付いたんだ。

定期異動時期じゃないのに

異動できたワケ。

 

ギリギリに異動させれば、

アイツだけ…という話になる。

異動を済ませてからでないと、

具体的な話に持って

行けなかったのだろうと。

この部署への異動は、

私が異動する数ヶ月前から

ポロポロと行われていた。

そして、私が最後。

助かったのだと、

この時初めて自覚した。

 

その時分かれていった会社は、

別の臨床検査センターの

提携と言う名で傘下に入り、

最初は子会社、

そして完全に吸収された。

 

まあ、それは置いといて。

 

異動後は楽しかった。

実験ができるだけでも

十分に幸せだったのに、

わからないことは教えてもらえ

試行錯誤することも推奨され

裁量権も経験と共に預けられ

新人さんを育てることもでき

自分が認められていると

重要視されていると

感じられる職場だったから。

 

ここではね、医薬品の試験を

やっていたの。

薬箱にも食品でいうところの

賞味期限が刻印されていること

知っていますか?

その期間、成分が壊れずに

残っているか

調べたりするんです。

 

職場の雰囲気は

和気藹々ですが、

締切は厳然としたもので。

残業も休日出勤もしました。

実験室にダンボール敷いて

仮眠をとったこともあります。

実験終わった〜と時計見たら

朝の5時で、それから帰って

着替えして化粧し直して

会社に9時到着など。

 

でも辛くなかったのです。

社畜だからではなく、

このスケジュールも

自分で決めていたから。

 

仕事に影響をきたさない限り、

どんなやり方をしてもOK🙆‍♀️

だから、

有給消化率100%、

アーティストのライブツアー、

全国あちこちへ。

有給申請すると聞かれるのは、

「今度はどこへ?」だけ。

いない間に先方から

連絡が来た時のために、

上司に簡単な報告をしておく

だけ。

 

私にはこれが合っていたようで

 

こういう方式が合わない人は

途中で去っていったけれど。

 

ここで学んだこと、

実験の手技にだけ限らず。

社外の人たちとの交渉、

書類作成能力、

計画立案、

プレゼンテーション、

伝達能力…

ここでの経験が、

今の私のベース。

 

そして何より、

やればできるって

自己効力感が付いたのは

ここの職場のおかげ。

 

じゃあ、なんでここで

勤め続けなかったのか。

小島がNoと言えば、

会社としての返答もNoだと

先方に伝える、

そこまで言わせたのに。

 

時に20代後半。

仕事はバリバリしていたが、

果たしてこれでいいのか?

女性はこのあたりの時期に

一度ぶつかることが多い壁。

何を選択するのか、

何を諦めるのか。

この先の人生を

どう過ごすのか。

ロールモデル

見つけられていれば、

辞めなかったのかもしれない。

 

でもそんなことよりも、

要求されることの変化を

受け入れることが

苦しかったから。

そろそろ自分が前面に出るより

人を育てるほうに

シフトしていって欲しい。

小島を5人作って欲しいと

いう希望。

ただ手技を教えるんじゃなくて

思考や行動のベースまで

教えるということ。

 

そんなことしたら、

私必要なくなるんじゃないの?

 

今なら

どれだけ評価されていたのか、

どれだけ期待されていたのか、

わかるだけに。

勿体無いことをしたんだね。

 

当時の私は、

自分が一番であること、

トップランナーであることが

何よりの支えだったから。

自分が必要とされていると

感じられることこそが

自分の存在価値だと

考えてたから。

 

唯一でいたかったから、

スケジューリングは上司にも

相談一つしたことがなくて。

上司には、具体的な話のみ。

分析機器が

希望日時に使えたり、

人手も必要な時に必要な人数を

器具も同じく。

 

逆算思考。

たまたまここの職場には

使う人がいなかった

だけのこと。

特別なことを

しているのではなく、

当たり前のことを

掛け合わせているだけなので

誰でもできることなのは

自分が一番知っていた。

つまり、教えたら、

みんなできるようになる

→私は必要なくなる

だから、

一番じゃなくなること

わかっていたから、

教えたくなかったんだよ。

器、ちーせーな(笑)

 

先が見えないは、

一番じゃなくなりそうだはで、

違う所へ行きたいなと

そう考え始めていた。