キャリコンまぁさのキャリアもシンプルな構築で。

一個人として、またキャリアコンサルタント・コーチとして感じたことを綴っていくブログ

私の行き当たりバッタリキャリア 〜仕事から離れた私は、自分を無くしました〜

違う所へ行きたいなと

考え始めていた

もう一つの理由。

 

『新しい上司の登場。』

 

直属の上司ではないけれど。

小さな会社の、

小さな部署なので、

管理職からアルバイトさんまで

含めて25名ほど。

直属じゃなくたって、

誰がどんな性格なのか、

今何をやっているのか、

分からないような

距離ではない。

 

働き方や労働環境について

何度話し合っても

一致するどころか、

寄り添いすらしない。

多分向こうも嫌だったと思う。

他の人たちは、

「素晴らしい」と言って

話を聞いてくれるのに、

私は、

「現場を見ていない・納得

できない・根本が違う・変える

べき所はそこじゃない」と

言っていたし。

しまいには、

「半年後の結果を見てよ」と

言われ。

 

結果なんぞ見たくもなく、

結果が出る前に

辞めてやろうと。

2003年10月に退職希望を

表明。

直属の上司は冗談じゃなく、

口をパックリと開けたまま

しばらく固まった。

 

定期的にグループシャッフルが

あっても、私を手元に置き続け

自由にさせ続けてくれた人。

最後の責任は必ずとるから、

やりたいようにやっていいと

常に勇気付けてくれた人。

自由気ままにやってたから

本当はお叱りを沢山

受けていてもおかしくない。

一切耳に入ってこなかったのは

防波堤に

なってくれていたのだろう。

私にとっては最高の上司。

(他の人には悪魔だったらしい)

 

本当は、2004年1月退職予定

だったのだが、

引継ぎの関係で、

3月までいる羽目になったが

まあそれはそれで。

 

転職準備を進めていたのだが、

年明けに妊娠に気付き、

転職はお預け。

それから体調優先で

大して出勤もできず。

 

出勤しても

秋から仕事調整が

進んでいたので、

引継ぎ文書を少し作るだけ。

そんな感じで退職の日を迎え、

私は専業主婦となった。

 

 

…いや、ところがね。

専業主婦っていきなりなっても

何をどうしていいやら。

どうしていいか分からず、

とにかくきちんとやらなきゃ!

と思い、

家の中に仕事モードを

持ち込んでしまう始末。

 

例えばですね、

帰るコールがあって、

15分後には着くよと

連絡があったとしましょう。

 

晩御飯を途中まで作った状態で

止めておいた私は、

受話器を置いたらすぐに

ストップウォッチを

15分にセットして

食事の仕上げに入ります。

で、15分経ってピピピ…と

なると同時に食卓に

並べ終わる、ということを

していたんです。

 

…ピッタリになんか

帰ってこないでしょ?…

 

そうすると、

直ぐにアラームを止めて

カウントアップを

始めるのです。

どれだけ遅れたのか

測っているの。

 

遅れたことを責めたいんじゃ

ないの。

ただ、時間に対しての

見積もりに甘さがあるのでは

ないかと、

日々の細かなことから

逆算して決めないと

後で大変だよと、

…認めて欲しかったんだと思う。

 

仕事をすると、

良かれ悪かれ、

フィードバックが

貰えるじゃない。

家の中にいたら

何にもないのね〜。

別に配偶者が

何にも言わない人では

ないのよ。

きちんと感謝してくれてる。

 

でもでも!

仕事から得られる

言葉の方が

役立ってる感あるじゃん…

 

こんな状態で

出産したものだから、

もうご想像の通り…

 

マニュアルなんて

通用しないことは

頭でわかっているのだけれど、

それをどうにか御しようと

あれやこれやとやってみる

→フィードバックなしで

やっているから早晩

ブチ当たり、テンパる。

→さらに観察を続けることで

身体が休息を取れない

→精神状態も悪化

→子供にも精神状態が

影響

→尚のこと上手くいかない

のループにはまり。

 

いくら周りが

ゆったりとか、

なるようにしかならないと

言ったところで、

それに対する根拠を

求めようとしていたし、

制御できることが

親としての能力だと

思ってた。

子供を泣かせちゃいけないし、

決まった睡眠パターンを

描けないのは

親の責任だと思っていた。

躾ができていないと

思われるんじゃないかと。

そんなところを他人になんて

見せることなど

できやしないと思い、

保健師さんがやってくる

1ヶ月健診も拒否、

その後多分児相だと

思うんだけど、

お子さんいますか〜?って

なんか来てたけど、

それにも

子供はいない、知らないと

言っていた。

家電も音がならないようにして

留守電に入れてもらったものの

中から、自分が話してもいいと

思える人にだけ、連絡して。

 

子供が眠っている間に

観察日記を記入し、

お手洗いと食事を済ませ、

音を立てないよう息を潜める。

徐々に覚醒し始めるタイミングで

ミルクのお湯とオムツの

準備を始める。

目を開けている時は

ずっとそばに付き、

話し掛けたりしながらも

ずっと観察を続ける。

 

 

鬼気迫った観察日記(笑)

今あんなに細かく書けない。

数字で示せることについては

数字で。

示せないことについても

出来る限り詳細に。

自分がいつ死んでも、

次の日からこの日記を見れば

変わらない世話ができるよう。

すでに精神状態病んでるよね。

でも外に一切出ないから

誰にもこんな状態

知られていない。

 

何かあったら

全て自分のせいだと

思ってた。

完全にできないのは

自分が出来損ないみたいで。

 

今までは自分の評価は

自分がやってきたことに

対してのみ。

評価が悪ければ、次の機会に

挽回すればいいと。

何度もリベンジの機会が

あったから。

 

ところがね、家の中って、

多方向からの評価が

まずないじゃない。

仕事だと、1人がダメと言っても

別の人が助け舟だしたり、

次上手くやるためのヒント

くれたり。

家の中には、ないよね。

評価はあったとしても

1方向からだけ。

価値観が柔軟性を失う。

認められたいから、

こうであるべき像に

こだわり始め、

それ以外を許容しなくなる。

 

(子供を産むと、

親に対して感謝の気持ちが…

などという人がいるけれど、

私の場合は逆に

怒りしか沸いてこなかったと

いうのもあるかもね。

キャリアの問題ではないので、

扱いはしないけど。)

 

産んで1年くらいは

そんな感じ。

それでも、

しなければいけないことは

したのよ。

4ヶ月、10ヶ月、

1歳半健診やら、

予防接種やら。

保健センターでは

大概イラついていたけれど。

保健師なのに!って。

発達相談にのるなら、

それなりの情報を持っていて

当たり前。

質問しても、

「様子をみてみましょう」しか

言わないし。

当たり障りのないことを言う、

具体的方策を示さない、

ただ聞いてるだけ。

 

ブチ切れだよ。

「何を聞いても

答えられないなら

時間の無駄です」と言って

帰ってきたとか、

何も質問されないうちから

「いや、いいです」と言って

席を立ったり。

 

保護監督者では

あったかもしれないけれど、

いわゆるお母さんとは

違ったよなーと。

 

子供が可愛くなかったとは

真逆の、

可愛すぎて、

守りたくて。

良く言えば、

野生動物の母状態だったの。

平たく言うと

危うかったんだけどね。

 

何とか慣れてきたかなぁ?と

思えたのが、

1歳を過ぎる頃。

歩き始め、

何やらフニョフニョ言い出し、

こちらの言っていることは

理解しているようだと

認識できる頃。

大雑把だけれど、

こちらも子供の

Yes,No がなんとなく

把握できて、

互いに理解が進んでいると

思えたからだと思う。

 

ようやく、

親子でちょこちょこと

近場に出かけるようになり。

同じような年齢の子も

見るようになり。

少しずつ外にまた目を

向けていくことができるように

なってきた。

 

ちょうどその頃に、

家庭内で色々あって、

また働かにゃならん状態に

なってしまい、

求職活動に入ることと

なってしまったのだ。

そう、「なってしまった」

なの。

働く気なんてなかったの。

お金はかけられなくても、

教育は施せると思って、

自分で教材品を作ろうと

してたのだから。

(ナンタラ教育のやり方

ネットにたくさん出てるもの)

 

働くにあたり、

保育園の状況をと、

区役所に行って現実を

知るのである。

 

ここ札幌の保活の現状を。

 

そして、就職が決まらなければ

保育園に入れないし、

保育園が決定しなければ、

内定をもらったとしても

入社日が決められないと

いうことを。