キャリコンまぁさのキャリアもシンプルな構築で。

一個人として、またキャリアコンサルタント・コーチとして感じたことを綴っていくブログ

誕生日祝ってくれてありがとう。

今日はそれだけ。

キャリアの話じゃ

全然なくて、

自分の回顧文ね。

 

また明日から

ライフキャリアの肥料に

なりそうなことを

書いていくから、

見たくない人は

今日はさよならね。

 

 

 

朝から沢山の祝いの言葉が

届いてた。

こまめに返事を返しながら、

つくづく思う、幸せだねぇ。

 

生き方のベクトルが

変わろうとする時、

思ってもみない人、

生き方の指針となる人に

祝ってもらえる。

正確にいうと、

本当に祝って貰えたのかは

定かではないけれど、

そんな気持ちになれたことが

今までに何度かある。

 

 

20代の時もそうだったな。

 

 

あるアーティストの方から。

 

 

ネットを通じて双方向の

コミュニケーションが

取り始められるようになった

テレホーダイ」が全盛期の頃。

 

23時を過ぎてから、

せっせと掲示板やら

自分のホームページに

書き込みを始めていた時代。

 

ファンとコミュニケーションを

とれる場所として、

期間限定で

そういう場が設けられていたの。

 

 

たまたま、

自分の誕生日が近いことと

この先どういう風に

生きていきたいのか、

というのを

書き込んで送ったら。

 

 

誕生日(20年近く前の今日)に

返事らしき文章がupされていた。

私が送ったのも

公開されている場だったし、

返事らしき文章も公開されている場に。

 

私が当時使っていたハンドルネームを

知っていた人は、

私がどんな文章を送ったのかも

みることができる状況。

 

明確に私への返事という証拠はない。

ただ、私のハンドルネームを知っていて、

どんな文章を送ったか知っていた

友達たちは、

あまりにもupされた文章が

私が書き込んだ文章に呼応しているので、

これは返事なんじゃないか?と

私に連絡をしてきた。

 

…見たときに、私も返事なんじゃないかと

そう思った。

 

まず明らかに誰かの文章に対して

返事という体をなしている文章。

私が書いたことと、返事の文章での対応に

過不足が一切なかったこと。

文章の最後に、

『誕生日おめでとう。

ところでいくつになったの?』と

書かれていたこと。

 

私、誕生日がいつになるのかは

書いたけれど、幾つになるのかは

確かに書いてない。

 

と、浮かれつつも、

毎日すごい数の文章が

寄せられているし、

まず本当に目に留まったのかどうかも

怪しいところ。

 

仮に見て貰えたとしても、

誕生日が同じ人だって、数十人くらいは

あの場にいたのかもしれないし…と、

舞い上がらないようにしていたの、

当時は。

それでも、その返事と思わしき文章を

ノートに書きつけて📓、

大事にとってあるの。

時々開いて励みにして。

 

今はその答えがどっちでもいいと

そう思える。

どちらであれ、私はその言葉で

ずっと強く生きていくことを

選択し続けてこれた。

別の人宛であろうと、

そもそも返事ですらなくとも、

もう充分。

感謝しか湧き起こらない。

 

今年のことも、

ずっと先になったら

同じように思えるようにと。

そういう生き方を

また選択していきたい。

 

今年のお祝いに関しては、

そう遠くならないうちに

直接お礼を伝えられよう、

生きていこう。